お墓について

今主人は、「高照院啓発一騎居士」という戒名で、文京区の護国寺に眠っています。高森家が護国寺の檀家だったわけではないのですが、主人にふさわしいお墓は? と考えに考えて、護国寺に決めたのでした。もともと高森家はキリスト教徒で、代々のお墓は横浜の先の久保山という所にありますが、主人自身は洗礼を受けておらず、宗派へは特にこだわりをもっていないのを分かっていましたから、私の独断でした。でも、護国寺に決めるまでは、心の休まることはありませんでした。

どこのお寺にも属していないお墓選びは、なかなか難しく、だいたい東京のお寺さんに"空"の墓地を見つけること自体が困難だったのです。主人にふさわしい場所という、曖昧かつ広範囲な願望から、的を絞れなかったという理由もあります。都内でなければ頻繁に行けなくなるのではないかしら、という危惧もありました。それは私にとって、望ましくないことでしたので、どうしても都内に探し当てたいと切望したのです。加えて、後々のことを考えると(それは私の死後を含めて)、主人を慕ってくれるファンの方たちの墓参りもうれしい期待でしたから、都内以外は考えられなかったのでした。浅草や上野等、交通の便が良く、名のあるお寺さんにあたりましたが、マンション型のお墓であったり、檀家に入りこむのは無理な状況と知らされたり、なかなか決定しなかったのです。

しかし、一周忌までには、どんなに遅くても建立しなければ、残された者としての責任を果たせません。そして、最初から頭の隅にありながら、どうせ駄目だろうと答えを出してしまって行動に出なかった"護国寺"が、あらためて私の内で色濃くなったのです。駄目でもともと、と期待をせずにかけた電話でした。「空いている墓地ですか、ありますよ」という応答に、本当ですか? と小躍りして、すぐに車を走らせたのです。主人のお墓に見合ういくつかの条件が、私なりにありました。その一つは、墓参りしてくださる方々の便宜上、最寄りの駅から近い場所であること、二つ目は、無縁仏の後の場所や、いわく付きの場所ではないこと。加えて、これがいちばん大事なことですが、お寺さんと主人とのかかわりがあること、そこに主人のお墓を作る意味合いがあること、これが決定打です。

高速を降り、護国寺の山門を入る左側に、地下鉄の「護国寺」という駅がありました。第一関門クリアーです。そして、案内されたその空き地は、護国寺が墓地用に増設した、という説明でした。本堂よりは下方でしたが、護国寺自体が丘というか小山に建っているため、その空き地から山門に続く参道が見渡せました。そして、いつもの癖で空を仰ぎ、ぐるりと反転して、音羽の森の木立に目をとめた時でした。厚く重い雲の層が割れて、そこから茜色の太陽の光が、まるでスポットライトのように直線に私と墓地にさしたのです。 その光の直線は、まるで何かの啓示のように私には感じられました。わあーと感嘆の溜め息をつきながら前方を見ると、なんと眼下に見えるのは、講談社ではありませんか。私の脳裏に、講談社を仰ぎ見るシーンで絶筆となった『男の星座』が浮かび、作中の主人自身の思いが胸に迫ってきました。

ここです、ここです。ここに決めます。

ここ以外に、主人にふさわしいお墓の場所はありません。即座に私は決めたのでした。加えて余談ですが、護国寺には茶道の会があり、定期的に催されるお茶席には、和服姿のきれいどころが集まるので、主人の目の保養になるのでは……とも思いました。やがて予定どおり、一周忌までにお墓を建立し、納骨することができたのです。講談社の野間社長のお墓も護国寺にあると聞いたのは、その後のことでした。

そして、もっと驚いたのは『あしたのジョー』の作中に、「力石の墓参りに護国寺へ行ってきた」というジョーのセリフを見つけた時でした。不思議な感動が湧きました。お墓の話など、一度もしたことのない私たち夫婦です。本人の意見も聞かずに決めてしまった不安を、ずっといだいていたのですが、主人の遺志に導かれていたのだという確証を得た感がありました。

高森篤子著『スタートは四畳半、卓袱台ひとつ』(講談社刊)より抜粋
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